井上九郎右衛門(井上之房、いのうえゆきふさ)は、1554年、播磨国姫路の豪族・井上之正の子として生まれた。幼名は井上彌太郎(井上弥太郎)。
姫路城主・黒田職隆(黒田官兵衛の父)に小姓として仕えると、黒田官兵衛、黒田長政、黒田忠之と4代に仕え、黒田家内では家老を務め、黒田二十四騎、黒田八虎の一人で、特に武功優れた勇者を黒田八虎と呼んだがその筆頭が井上九郎右衛門となっている。
井上九郎右衛門は礼儀正しく武勇もあり、黒田職隆が隠居して黒田官兵衛に家督を譲った後も、井上九郎右衛門は引き続き黒田職隆に仕えたと言う。
正室は櫛橋伊定の娘。
黒田官兵衛が有岡城で荒木村重に捕われた際には、敵地の有岡城に忍び込んで、牢の周りを徘徊して安否を気遣い、栗山善助らと救出に成功した。
黒田職隆が亡くなった後は、黒田官兵衛が6000石で家臣に加えている。
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中国征伐や四国征伐には参加しなかったが、豊臣秀吉の小田原攻め、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いにも参加した。
特に関ヶ原の戦いの際の石垣原の戦いでは、大友義統の家老・吉弘統幸を一騎打ちにて討つ武功を挙げている。
1601年、井上九郎右衛門は黒田如水(黒田官兵衛)に従って伏見にて徳川家康とも拝謁している。
翌年には黒田長政の使いとして江戸に登り、徳川秀忠から栗毛の馬を拝領。
その縁で、井上九郎右衛門の長男・井上庸名は、徳川秀忠に仕え、井上庸名は後に6000石の旗本になっている。
黒田長政の筑前国への移封の際に黒崎城を築城して城主となり、16000石を領し「井上周防」を名乗っている。
1632年、福岡藩のお家騒動である黒田騒動を家老の栗山大膳(栗山利章)が起こすと、栗山利章と結んで倉八正俊を排斥。隠居後は剃髪して「道柏」と名乗った。
1634年に病死。行年81歳。墓所は福岡県岡垣町の龍昌寺。
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